松井 悠 氏

松井 悠さんは世界80カ国以上の代表選手が出場するeスポーツの世界大会『World Cyber Games』、中国・韓国政府主催によるeスポーツイベント『International E-sports Festival』といった、国際的なeスポーツイベントの日本プロデューサーを務めるかたわら、ゲーム業界の最新トレンドをまとめた『デジタルゲームの教科書』スーパーバイザーなど、国内外のゲームシーンで活躍されています。

それぞれの世界では知られた存在の松井さんですが、どのような活動を経て現在に至るかはあまり知られていません。今回は、インタビューを通じて、松井さんの過去から現在までの活動に迫ってみました。

ゲーマーとしての活動を行っていた10代

松井さんが初めてゲームに触れたのはいつでしょうか。また、それはどんなタイトルでしたでしょうか。

松井: ゲームに触れた、というところでは、小学生の時代に友達の家でファミコンを触らせてもらったのが最初だったと記憶しています。ただ、家ではゲームが禁止されていたということもあって、しっかりとやりはじめたのは、小学校 6 年生くらいのときに「ストリートファイター II」をゲームセンターで遊んでからです、ちょうど中学受験まっさかりの頃に、ストレスのはけ口みたいな形で遊び初めたのがきっかけでした。

それから、中学の時は「ストリートファイター II'」を筆頭に、様々な対戦格闘ゲームがリリースされることになります。この時期は、まだゲームセンターもいろいろな場所にあって、対戦相手には困りませんでしたね。

ゲームセンターでのプレーに夢中だったようですが、大会やイベントには出場されましたか?

大会にエントリーをしたのは初代の『鉄拳』が初めてでした。これが 1995 年の事で、プレイシティキャロット高田馬場店というところで行われた大会に出場しました。この時の結果は、準優勝だったと思います。余談ですが、そのとき優勝したプレイヤーさんとはいまだに仲がいいですね。

そのあと、『鉄拳 2』 がリリースされ、プレイステーションブームも相まってゲーセンはかなり盛り上がっていました。この頃、吉祥寺近辺の高校に進学し、学校の近くにあるプレイシティキャロット西荻窪店で『鉄拳 2』にいそしむことになりました。

当時は『ゲーメスト』という有名なアーケードゲーム雑誌がいろいろな格闘ゲームの日本大会を行っていまして、そのゲーメストが開催していた『鉄拳 2』の全国大会に参加したのですが、ベスト 16で敗退してしまいました。あれはかなり悔しかったですね。

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プレイステーション版『鉄拳2』公式サイト

全国大会が行われてしばらくすると、後に『鉄拳の聖地』と呼ばれることになるプレイマックス新宿店のプレイヤーたちが、『プレイシティキャロット西荻窪店』に大挙してやってきます。そこで知り合ったプレイヤーさんに、「プレイマックス新宿店に来れば対戦相手には困らない」と言われて、わざわざ定期券の経由地を変更して新宿に通うようになりました。それが、96 年あたりの出来事ですね。

適正なレベルの対戦相手に恵まれると、スキル上達がものすごく早くなる、というのは何にしても同じことで、そこで僕はメキメキと強くなっていきます、と自分で言うのも何ですが、学校が終わってから、22時まで(風営法により、18歳未満は22時までしか入れなかった)、毎日のようにプレイしていれば、それはまぁ……強くなりますよね。

プレイマックスには、鉄拳を開発していたn社による『公認プレイヤー制度』というものがありまして、プレイマックスで行われたトーナメントで幾度もの優勝を達成していた実績を評価され公認プレイヤーに認定されました。

その後、『ザ・プレイステーション』というゲーム雑誌のライターとして、お仕事をいただけるようになります。当時、鉄拳の攻略集団として、かなり有名だった『卍党』という団体に所属するようになり、そこで「ストリーキング松井」という名前で記事を書いていたのは知る人ぞ知るお話です。 今でも当時の原稿が掲載された雑誌をもっていますが、自分の日本語能力の低さにただただ赤面するばかりですね。

お話を聞いていると、これまでに一番真剣に取り組んだゲームというと鉄拳シリーズということになるのでしょうか?

松井: そうですね。『鉄拳 2』時代に仕事を教えてくれた方をはじめ、かわいがってくれた人たちが仕事の都合や、家庭の事情でプレイマックスから離れてしまっている中で、僕は新たにリリースされた『鉄拳 3』を盛り上げていこう、というモチベーションでプレイを続けました。この頃から、自分で大会を主催しはじました。最初にやった大会は確か、17歳か18歳のときだったと思います。

当時、東京の『鉄拳3』シーンは非常に盛り上がっており、朝から閉店まで一度もデモ画面が流れない(お店に10 セット近くある鉄拳 3 の対戦台で常に対戦が行われているため)、なんていう都市伝説みたいなお話もあったくらいでした。

最初にやったイベントはどんなものだったのですか?

松井: 当時、18 歳くらいの時だったと思いますが、渋谷にあるナムコ系列のゲームセンター『INTI 渋谷店』で、鉄拳 3 のトーナメント +DJ イベント『GameJam』というイベントを主催しました。ちなみに、セガさんが行っていた「GameJAM」というイベントとは、同名ですがまったく関係ありません。

この時は、鉄拳だけではなく、音ゲーや、アクションゲームなど、ゲームセンターを盛り上げるためのイベントを行っていました。その後、これらのイベントは、青森、山形、札幌などで出張開催し、スタッフを連れて日本中を転々とすることになりました。これらの活動を通じてイベント運営のスキルを身につける事が出来たと思っています。また、この時のコネクションがその後の仕事にも大きくつながったと思っています。

『GameJAM in  Sapporo Amuseum』の様子
『GameJAM in Sapporo Amuseum』の様子

鉄拳 3 の頃は、雑誌での露出もあったせいか日本全国のゲームセンターからお呼びがかかりました。週末に行われるイベントでのゲスト組手や、実況、プロモーションのお手伝いもさせてもらっていました。ほぼ、毎週どこかのゲームセンターでマイクを握っていたせいか、その後、FM ラジオの DJ や、スカパー!の番組パーソナリティーをやったときも、それほど違和感なくこなす事が出来ましたね。

IGDA日本デジタルゲーム競技研究会の写真
近年ではゲーム、講演、DJなどをミックスした
ユニークなゲームイベント『ゲーマーズラウンジ』を開催。

ビジネス志向へとシフトを始めた20代

真剣にゲームに取り組んだ結果、徐々にゲームが仕事になっていったということですね。この辺りについて詳しくお話を聞かせていただけますか?

松井: 中学受験で入れた学校にそのままいれば、大学までエスカレーター式に進学することが出来たのですが、ゲームのやり過ぎでドロップアウトしたあたりで、学歴志向をあきらめて、起業について少し考え始めていたような記憶があります。

まずは、イベントオーガナイズ集団として、18 歳の時に『Freak's』という団体を立ち上げました。先ほどお話ししました、ゲームセンターでのイベントなども、このレーベルでやっていました。

そして、高校の3年生のときに、それまでのプレイ活動の集大成として同人誌を一冊作ってみました。それが『IRON FIST Freak's』というもので、日本全国のトッププレイヤーに攻略記事を書いてもらい出版しました。この時に、DTP やデザイン等で協力してもらったプレイヤーとは、その後もいろいろなシーンで仕事をご一緒させていただいています。

この本をきっかけにして、『ザ・プレイステーション』の攻略本『TEKKEN 3 THE MASTERS GUIDE』の制作に携わらせてもらえるようになりました。とはいっても、このおかげで、大学入学から 1 ヶ月間まるまる編集部に泊まり込むことになり、あとはおきまりのパターンになるのですが……。

その後、20歳(1999年)の時に大学の仲間を中心として編集プロダクション『team StrayDogs』を立ち上げます。そこから、オンラインゲームマガジン『GamelexAC』を発行したり、クラブイベントの運営を行ったりしました。この頃は、ゲームを真剣にプレーするというよりも、「記事を書くため」「イベントをやるため」というスタイルでゲームに取り組んでいました。

その後、VJ ソフトのプロモーションの仕事仲間達と共に今の会社『グルーブシンク』を立ち上げることになります。ほとんどの人は、僕が eスポーツ 関連の仕事をメインにしていると思っておられるようですが、これは勘違いで、メインの業務は「デザイン」「ライティング」「プロモーション」などで、ゲーム関連のお仕事の比率は皆さんが思っているほど高くはないです。もちろん、お声がかかれば、喜んでやらせていただいていますし、名前は出ていませんけれども、ゲーム関連のお仕事もいろいろとやっています。

株式会社グルーブシンク
松井氏が代表を務める『株式会社グルーブシンク』。
Web サイトや記事・書籍の制作業務がメイン

 

 

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